【コラム連載シリーズ】私とゴムの履歴書 創業から戦後まで【6】~二代目・右川洪輔の時代~ 右川清夫氏

2016年08月29日

ゴムタイムス社

【コラム連載シリーズ】私とゴムの履歴書 創業から終戦まで

 右川ゴムのまり作り

 明治の終わりころには、隅田の墨堤の内側はとっくに電燈がついていたのに、わが右川ゴムの工場と右川家がある墨堤の外側は、まだランプの世界でした。

 何でも提を越えて電燈線を引くには相当の費用がかかり、一部個人負担ということで、頑固な祖父・慶冶と電燈会社との折り合いがつかず、当分ランプ使用で生活をしていたようです。そのため、23mもする高い煙突を建てるにも、特別な許可が必要だったわけです。

 私が、小学校(当時は国民学校)へ入学したころは、大きな敷地に、祖父の邸宅、父の長兄で医者の庸夫の病院があり、父・洪輔の経営するゴム工場がありました。自宅と隣接する工場の倉庫には、毬の原料(天然ゴム一塊113kg)がごろごろ置いてあり、上海に出張の多かった父の留守を守る気丈な母は、ゴムを盗みに入る泥棒を見張るのが役目でした。

 ゴムまりは季節商品で、とくにお正月に最盛期が来るため、戦後新築した家の地下室が夏に生産したゴムまりの格好の貯蔵庫になり、需要の最盛期を乗り切りました。

 しかし、ボールに頼るゴム事業もビニールまりに押され始め、毬だけに頼って生き残ることに危機感を感じ、多くのゴム屋さんが関わってこられたように、プレスによる部品産業に転換を図りました。

 ある時、得意先からスーパーボールの仕事が舞い込んだことがありました。父はその仕事を自社一軒だけで独占しないで、同業組合で分け合って受注をし、供給を間に合わせたこともあります。この仕事は商社を通じてアメリカのスーパーへ輸出され、業界を潤したものでした。

 右川ゴムに入社

 昭和30年ごろ、右川ゴムは不渡り手形をつかまされ、一時債権者管理の状態に陥った時期がありました。私は入ったばかりの大学を退学して、父の手伝いを決心しました。社員やその家族、まして仕入先に対する責任を思うと、のうのうと学校には行っておられなかったのです。

 退学してから、工場のいろいろな仕事を身に着けることができました。朝5時起きも苦になりませんでした。私は小学校のころから、病院の2階に間借りしていた学校の先生に、勉強を教わりに通ったこともあります。厳しい母親に言いつけられて、かまどに火をつける飯炊きの体験もあったのです。

 石炭炊きのボイラーに火を付けてから、食事をして仕事開始。ボイラーも2級免許を取り、昼はベテランの工場長から原価計算の手ほどきを受けました。午後はマツダの三輪自動車という、今でこそ見かけない蹴とばし式のアクセル(時々ケッチンして親指の生爪をはがした)の車の荷台に、毬を積んで配達し、夜はロールの練り方を教わりました。また、代々木にある簿記学校に通い、帳簿の付け方を勉強しました。

 仕事を終えてから、大岡山にあった大日本護謨協会までゴム技術講習会に通い、青江一郎、金子秀男先生らに、配合技術の基礎を教わりました。

 陛下に差し上げた軟式玩具向け野球ボール

 右川ゴムが昔から手がけていた軟式野球ボールは、公認球ではありませんでしたが、割れないボールとして評判がよく、他社品をしのぐ勢いでした。

 のちに自動車部品で関係のあった帝都ゴムの田口社長が、終戦直後、野球ボールも手がけたことがあると伺いました。当時は多くの会社が軟式ボールを作っておられたようです。

 また、右川ゴムでは野球ボールの型で中空のソフトボールを玩具向けに作っていました。たまたま中学から通っていた学習院高等科で、寮生活を共にした今上陛下へ、お誕生日を迎えられた皇太子殿下のためにボールを差し上げたことがありました。陛下は大変喜ばれて、それから何年もたってから、別の学習院の会合で同席された美智子皇后陛下に、「彼があのボールの右川だよ」と紹介され、恐縮したことがありました。陛下の人間性のすばらしさとご記憶力の確かさに感心するとともに、一生忘れられない思い出となっております。

 学習院進学の経緯

 下町の一零細企業主の息子が、なぜ学習院にと思われる方もおられると思います。そのいきさつを申し上げます。

 前にも述べましたが、3月10日の空襲で右川ゴムは壊滅、煙突一本を残した焼け野原となりました。戦後、父・洪輔は、工場が戦災をまぬかれた長瀬護謨へ工場長として迎えられ、会社内の寮に家族ぐるみお世話になりました。当時、私は上の弟(次男)と二人、母の郷である信州に疎開しており、下の弟(三男)と二人の妹が長瀬護謨の寮で大きくなりました。

 私が長瀬護謨とつながりを持ったのは、疎開先の信州から東京へ引き上げてきた昭和21年ころです。そのころには、母の兄、船山厚三の援助により山から切り出した材木で、堤通の工場と同じ敷地に新築の家が建てられました。

 父がお世話になっていた長瀬護謨に、植村中将のご子息で学習院出身の植村さんという方ががおられました。この植村さんのご紹介で、私は通っていた隅田小学校から、学習院中等科を受けることになったのです。

 戦後、宮内庁の管轄下にあった学習院は私立学校になり、一般庶民が試験を受ければ誰でも入れる学校となりました。植村さんのご紹介もあり、私は昭和22年に受験して合格。併願した開成中学にも合格したのですが、あえて学習院を選んだのです。

 夏休みには、山登りの資金を得るために長瀬護謨の仕上げのアルバイトで、軟式ボールの箱詰めをさせてもらったこともあります。現会長の長瀬二郎氏の奥方・和子さんも一緒に手伝いに来られ、たのしい夏休みだったことを思い出します。

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