【コラム連載シリーズ】私とゴムの履歴書 創業から戦後まで【5】~二代目・右川洪輔の時代~ 右川清夫氏

2016年08月08日

ゴムタイムス社

【コラム連載シリーズ】私とゴムの履歴書 創業から終戦まで

 「人に歴史あり」「その人は、その人に合った出来事に遭遇する」

 この言葉通り、私の経歴は、父、母、母の兄、小学校の恩師などの影響を受け、私の個性に合わせて、いろいろな出来事に遭遇してきました。個人に歴史を作る能力はなく、歴史が人を作るといわれる通り、私が歴史を作ったわけではないことをお断りしておきます。

 右川ゴム製造所の復活

 戦後、焼け跡に残った戦前からある大きな金庫の中で雨露をしのぎながら、いち早くゴムまりを作り、残った高さ23mの大きな煙突から煙を出して、祖父・右川慶冶の遺志を継ぎたいと願ったのは、母・民子でありました。

 男勝りの母・民子は、終戦直後から事業に対しての情熱は人一倍で、5人の子供を育てる傍ら、昭和21年には信州の兄(船山厚三)の助けを借りて、山から伐り出した材木で自宅を建てました。従業員も母の出身地の信州から母の兄の伝手を得て、広い敷地の中で寮を建てて住んでもらい、人手不足に対応していました。

 父・洪輔はおとなしい性格で、勝気な母と仕事上の衝突も多く、母の方が再建に前向きでした。世話好きな父は、他人から頼まれると断ることのできない性格で、他の業者の批判や陰口などすることもなく、貴公子然たるタイプであったようです。昭和32年、東京ゴム同業組合の設立にも尽力しました。

 戦前、1000坪あった右川家の土地が頭の良い無法者に翻弄され、いつの間にか600坪になっていたりしました。あまり法律に明るくなかった父に代わり、勝気で正義感の強かった母の力で戦後処理が済み、右川ゴムもようやく軌道に乗り始めました。

 昭和25年10月、父・洪輔がお世話になっていた長瀬護謨を退任。昭和27年3月、右川ゴム製造所は有限会社で復活にこぎつけました。資本金70万円、従業員は32名で、ゴムまり、軟式野球ボールの専門工場として発足。会社に隣接して自宅があったため、三男二女の子供たちは、長男の私をはじめ兄弟でゴムの素練りや、リヤカーを自転車につけて白髭橋を渡り、蔵前の問屋までゴムまりの配達を手伝いました。それほど戦前に引き続いてゴムまりの需要はあったのです。

 ゴムまりの歴史

 ここで、日本でのゴムまりの歴史を振り返ってみたいと思います。

 右田伊佐雄著『手まりと手まり歌』によると、江戸後期の曹洞宗僧侶、良寛(1751~1831)は、村の子供たちとまりつきやかくれんぼをして遊んだとの記述があります。彼は所持品メモの中に愛用具として手まりを入れており、彼がいかにまりつきを愛したかの証拠と言えます。

 良寛の時代の手まりは、現代のものとはかなり違い、ぜんまい綿、みずごけ、へちまなどを芯にして、ぐるぐると木綿糸を巻きつけ、球体に整えたもので、あまり地上高くリズミカルに弾むまりではありませんでした。

 手まりといえば糸まりしか知らなかった日本人の眼前に、突如ゴムまりが出現したのは明治初期。もちろん輸入品によってでありました。

 三百年の鎖国が明治政府によって打ち破られ、欧米から輸入品がどっと陸揚げされ、その中にゴム靴、ゴムひき合羽、氷嚢、乳首、ゴムまり、ゴム風船など各種ゴム製品がありました。

 維新から10年後には、ゴムまりはもう普及していたらしく、明治12年に川柳で「ゴムまりはつく人の気も弾み」と『明治事物起源』に載っています。
 ゴム製品の国産第一号は明治19年、東京で創業した三田土護謨製造会社で、明治23年にゴムまりを製造。明治28年には、ゴムまり製造法に関する特許申請をしています。

 その2年後の明治30年に、同じく東京に右川護謨製造所が設立され、すぐにゴムまり専門の製造を開始。明治40年には、右川式ごむまり製造機を発明するまでになりました。

 追い打ちをかけて大阪でも河本信三という人が、アメリカへ渡って技術を習得し、帰国後すぐに工場を新設。ゴムまり製造を開始しました。明治32~33年のことと言われています。

 ゴムまりの価格ですが、明治28年ころの輸入品が1ダースで1円ないし1円20銭であったのに対し、三田土の赤エム印が1円5銭。わずかに国産の方が安かったようです。エムは三田土の頭文字で、宮崎一枝編『伊丹のわらべ歌』によると、明治36年生まれの伝承者の談として「明治の末ごろの赤Mのてまりが1個15銭、青Mは10銭だった」とあり、国産ゴムまりにも高級品と普及品の2種があったとみられます。

 このように国産メーカーの奮闘で、早くも明治33年には、輸入ゴムまりは進出の余地がほとんどなくなってしまいました。

 軟式テニスボールへ

 さて、我が国のテニスは、明治11年にアメリカ人G・E・リーランドが、体育伝習所へ伝えたのが始まりと言われています。その後、明治23年ころ、外遊先からテニス用具一式を携さえて帰国した東京高等師範教授の坪井玄道が、高価な輸入の硬式テニスボールの代わりに国産のゴムまりを使わせました。

 これが日本独特の軟式テニスの起源でありますが、ちょうどうまくゴムまりが発売されていなかったら、軟式テニスは誕生していなかったことになりましょう。

 一方、手まり遊戯の側から見ても、もし軟式テニスという、別の需要がなかったらゴムまりの量産が遅れ、それだけ子供たちへの普及も遅くなったものと思われます。

※参考資料:『手まりと手まり歌』(右田伊佐雄著/東方出版)、『明治事物起源』(ちくま学芸文庫)、『伊丹のわらべ歌』(伊丹市教育委員会社会教育課 宮崎一枝編/伊丹市教育委員会)

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