【コラム連載シリーズ】私とゴムの履歴書 創業から戦後まで【2】~右川ゴム初代の時代~ 右川清夫氏

2016年02月08日

ゴムタイムス社

知楽遊学エッセイ 右川ゴム

 

 前回に続き、創業者・右川慶治の講演録から黎明期のようすをひも解き、㈱右川ゴム製造所の歴史をたどります。

 手さぐりのゴム作り
 ゴムの実用化を果たした慶治は、明治33年まで鐘ヶ淵紡績会社(鐘紡)で嘱託医を務めていましたが、医者の傍ら、朝晩にゴムの仕事をするのは大変だと、丹波から義弟の大石虎之助を呼び寄せました。
 慶治はまず、スポイトを作ろうとしましたが、スポイトの外型はできても内を膨らますことができません。ある時、輸入品のゴムまりを破ってみると、どうも塩化アンモニウムの粉と同じ匂いがする……そんなことを端緒に、日本製ゴムまりができるようになりました。
 慶冶の終生の顧問だった谷口直貞工学博士には「医者をやめるなら、何か米びつになるものをやらなければ」と言われていました。スポイトの原理で毬はできる。当時は毎年25万円ほどの毬が輸入されていたそうです。船で運ぶには運賃がかかる、これなら競争できると慶治は考えたのでしょう。
 スポイトやゴムまりを作るのに困ったのは、はがす時にゴムが型にくっつくことでした。滑石を入れるといいと聞き、慶治は大石と二人で秩父山へ。すると、滑石を粉にしたものが見つかり、型はがれもよくなりました。こうやって、仕事も軌道に乗っていきました。

 妻・高子の支え
 こうした研究時代は、失敗するたびに高価なゴムの原料を買わねばならず、慶治の妻・高子は、

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