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【コラム連載シリーズ】私とゴムの履歴書 戦後から現在まで【11】~右川ゴム三代目の時代~ 右川清夫氏

2017年08月07日

ゴムタイムス社

 

~右川ゴム三代目の時代~

 父・右川洪輔が亡くなる前年の昭和46年、私・清夫が㈱右川ゴム製造所の事業を引き継ぎました。最初の大仕事が埼玉県八潮市への移転でした。

恵まれた工場移転

 昭和4910月、白髭東地区の再開発により、右川ゴムは八潮市に新設した工場に移転。社員22名から一人の退職者もなく、新工場への継続勤務を承諾してくれたことで、恵まれた工場移転となりました。

 前年秋に起きた第一次石油ショックのあおりを受けて、あらゆる物価が高騰し、大変な思いをしました。それでも、建築資材を前もって手配し、ボイラーやニーダー、ロールなどは、早めに契約を結んでいたので、いくらか助かりました。新工場の建設費は約2億円。釜加硫の押し出し主体だったので、粉塵処理の集塵機に1300万円をかけ、環境に配慮した工場を心がけました。

 主力商品は、自動車の窓枠などの部品、工業用ゴム部品、弱電関連のゴムの押し出し部品です。年商は約1億円。移転を機に生産設備の合理化を進め、高度の加工技術で付加価値のある商品の開発に努めました。

釜加硫かマイクロ波か

 続いて昭和49年に起きた第二次石油ショックを契機に、省エネ、省資源が叫ばれ、工業用加熱装置においてマイクロ波エネルギーを利用する動きが活発になりました。マイクロ波加熱方式は、他のエネルギーに比べて非常に効率的で、ゴム、食品、木材、印刷などの広い分野で、加熱、乾燥のエネルギーとして有効利用されるようになってきました。

 従来のゴム加硫は、熱によりゴム配合中の硫黄、加硫促進剤が反応して、ゴム分子間の強固な結合を作り、ゴム弾性を得ていたのですが、ゴムは鉄などに比べて比熱で4・5倍、熱伝導度では500分の1にも及ぶ熱の不良導体であるため、多量のエネルギーと時間を要し、熱効率が悪いのです。さらに、熱の絶縁体である発泡スポンジゴムや中空の肉厚押し出し製品に至っては、大変な加硫時間がかかってしまいます。

 ここにマイクロ波加熱がとり入れられる必然性が生まれたわけです。

 押し出し製品を主体とする弊社としても、早い時期からマイクロ波加熱の導入を考えておりました。しかし、ボールの生産にこだわっていた面があり、釜加硫から抜け出せないまま、東京都との契約期限もあって移転に踏み切ったのでした。

バッティングセンターのブーム

 石油ショック前後の弊社は、売り上げ構成比で、主力の自動車部品、建材用品、工業用ゴム製品が6割を占め、残りの4割が軟式野球ボールをはじめとするボール類。年商は1億8000万円でありました。

 石油ショック以降の2年あまりは苦しい業況でしたが、ようやく光が見えてきたところでした。その要因として、自動車業界好況の恩恵も大きかったですが、戦後三番目と言われる「バッティングセンターブーム」で、軟式野球ボールの需要が著しく伸びたのでした。昭和51年に1万ダース、翌52年に1万7000ダースを出荷しました。

 自動車部品、工業用品関連は円の高騰を受けて発注先の条件がかなり厳しく、コスト面や納期に対して、全力を挙げて、2億円の売上達成に努力いたしました。

マイクロ波加硫の導入

 昭和60年春頃より、シリコンゴムに代わるエラスレンという塩素化ポ

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